トレドの大聖堂の聖マリア像、その笑顔は誰のために?

La Virgen Blanca del catedral de Toledo

まず、本題に入る前に聖母マリアについて少しだけお話させてください。聖母マリアはカトリック教会においては「神の母」としての特別な位置付けがされており、Virgen María(ビルヘン・マリア「処女マリア」)、Santa María(サンタ・マリア「聖女マリア」)など様々な呼称が存在します。同様に、ここで語られる Virgen Blanca (ビルヘン・ブランカ「処女ブランカ」)も聖母マリアを示しています。スペイン語で白を意味するブランカ «blanca»。これはこの像の素材の色から来ているというのが一説。もう一つは聖母が生涯起こした様々な奇跡から、奇跡の象徴である白色に由来しているとも言われています。一方、神学的にはこの白という色は処女の純粋さを表し、処女性と無原罪の御宿りの概念に関連付けられています。

さて、トレドの大聖堂に置かれた高さ1メートル53センチのこの白い大理石の聖母像 «La Virgen Blanca(ラ・ビルヘン・ブランカ)» はゴシック様式の彫刻で、14世紀に作られたものです。微笑みながらお母さんの顎を触る赤ちゃん(イエスキリスト)を立ち姿で抱くその愛情深い聖母の笑顔は、まさに母性愛を描いています。この像はエル・グレコの最高傑作「オルガス伯の埋葬」に描かれるトレド出身のオルガス伯ルイス(ドン・ゴンサロ・ルイス)からの寄付だったと言われています。

トレドの人々は現在でもこの像を「ヌエストラ・セニョーラ・ラ・ブランカ(我らが貴婦人、ラ・ブランカ)」と呼び崇拝しています。ここでご紹介する伝説は、現代の信者同様にもしくはそれ以上にこの聖母像を慕い、崇拝していた一人の若い女性のお話です。

昔ベアトリス・デ・ロサレスという美しい貴婦人がいたそうです。1569年、この貴婦人は、もともとは孤児であり幼少時にオルガス伯に引き取られ貴族となったドン・サンティアゴ・ガランと結婚しました。二人は熱心なカトリック信者であったため、トレド大聖堂の La Virgen Blanca (ラ・ビルヘン・ブランカ)の祭壇で盛大な式を挙げた後、幸せな日々を送っていました。ところが、二人が結婚式を挙げた年にグラナダで勃発していた戦争が日に日に悪化し、遂にはグラナダからは遠く離れたトレドからも多くの市民が動員され戦地に赴き始めるようになっていました。貴族たちのほとんどは自分たちの下僕などを送ることによってその要請に答えていましたが、勇敢にもサンティアゴは自ら進んで戦争に行くことを決心しました。しかも、それはベアトリスが二人の初めての子供を授かったことを知った日だったそうです。

戦争へ向かったサンティアゴからの便りは一向に届かず、時が流れるにつれ、誰もが彼は戦争で命を落としたのだと思い込むようになっていきました。ただ唯一、彼の妻だけは、毎日祈りを捧げている聖母ビルヘン・ブランカが必ず彼を守ってくれているに違いないと頑なに信じ続けていました。

2年の歳月が経ち、それでも夫が生きていると言い張るベアトリスを、人々はかわいそうにとうとう気が狂ってしまった、と思うようになっていました。

その年の9月8日、ラ・ビルヘン・ブランカのお祭りの日、ベアトリスを含む信者たちは聖母の保護を受けるためその像の足元に口付けをしようと長い列をつくっていました。信心深い人々の列は静かにゆっくりと進みました。そしてベアトリスの番になり、彼女は自分の小さな息子を聖母像の高さまで持ち上げ、どうかこの子をお守り下さいと祈ろうとしたその瞬間、人々の目の前で突然聖母像が光を放ったのです。

「奇跡だ!」人々の叫びの中心で、聖母はゆっくりと微笑みました。

その時です。長いあごひげを生やし、ぼろぼろの服を身に付けた疲れ果てた男が群衆の中に表れたのです。変わり果てた姿でも、誰もがすぐにドン・サンティアゴ・ガランであることに気づきました。サンティアゴは像の前まで歩み寄ると涙を流しながら地面に身をかがめました。それからゆっくりと起き上がり、その場にいた妻と初めて会う自分の息子にキスをしながらしっかりと抱きしめたのです。人々はその光景を、喜びの涙を流しながら見守りました。

この記事の伝説は ciudaddelastresculturastoledo.blogspot.com を参照にさせていただいたきまた。伝説は実際にはもう少し長く、スペイン語ですがよろしければ読んでみて下さい。

(画像: Creative Commons , 作者: Miguel Hermoso Cuesta)